今年度「国家と自由の空間」をテーマとして法制史学会秋季シンポジウムを開催することとなった。ここにその企画趣旨を述べるものとする。
「法とは何か」、法学という研究分野にいる者にとって常に念頭にある問いである。その答えに迫るには、様々な局面からこの問題を探求する必要があろう。
さて近年実感として感じられることとしては、制定法の数が年々増加しているというものがあるが、では一体制定法はどこまで必要なのであろうか。
国家が法を定めることで不正は防止され、公正が保たれることは確かではあるものの、その反面自由の空間が狭められるのもまた確かではないか。
この点につき歴史を振り返ってみると、伝統中国では統治者による社会秩序維持のための成文法は膨大な量になるまで発展していたが、その一方で実定私法の体系的な発展はみられなかった。しかしながら人々の間では一定の秩序を保ちながら私法上の取引は活発に行われていたのである。
このように考えると、統治権力或いは国家が定める法と個人の空間という観点から歴史的事象を見てみることも、法を考えるための一つの視点として有益に思われる。そこで「国家と自由の空間」をテーマとして、以下に示す三つの報告及びジャン=ルイ?アルペラン教授(パリ高等師範学校)による自由の概念に関わる講演を行うこととなった。
本テーマは一つの報告で何かの答えを導くことができるようなものではないが、三報告で紹介された事象及びアルペラン教授の講演に基づき、会場から様々な意見が提起され、活発な議論が起こることで「国家と自由の空間」のテーマの下で思考が深まることを期待する。
松田恵美子(名城大学)
テーマ:国家と自由の空間
日時 :2017年9月30日(土)
会場 :名古屋大学(アジア法交流館)
プログラム
10:00-10:10 趣旨説明
10:10-11:40 「自由の概念と法律家の役割(仮題)」
ジャン=ルイ?アルペラン(パリ高等師範学校)
11:40-13:10 昼食休憩
13:10-13:50 「清代中国土地取引にみる地域社会編成の動態と国家法秩序」
松原健太郎(東京大学)
13:50-14:30 「フランス革命期における『一般意思の表明としての法律』と『自由』」
波多野敏(岡山大学)
14:30-15:10 「大正期母性保護論争に見られる個人と国家」
松田恵美子(名城大学)
15:10-15:30 休憩
15:30-16:00 コメント
憲法学から 高井裕之(大阪大学)
法哲学から 平井亮輔(名城大学)
16:00-17:00 総合討論
18:00-20:00 懇親会
報告要旨
清代中国土地取引ににみる地域社会編成の動態と国家法秩序
松原健太郎(東京大学)
本報告は清代中国における「国家と自由の空間」につき、以下の三つの局面に分けて考察する。
先ず前提として、国家官僚機構と直接の接触を持たないような華南地方郷村部の事例分析を通じて、そこに見られる社会編成過程が(有効に成立した国家の統治作用を前提として一体の主体が何らかの自由を求める、ような関係であるよりは)、ある主体が一定の文化的諸装置への積極的な自己同一化を通じて民族的?国家的アイデンティティを獲得し、国家の積極的関与なしに国家としての統治空間(もしくはそう見えるもの)を結果として形成する、過程としての側面を持つことを確認する。その上で、上記のごとき過程を経て統治空間に組み込まれた地域社会がどういった媒介項を経て実際の官僚機構による国家統治と関係をもちえたか、理解を試みる。
次に、こうした郷村部の地域社会を支える物的基盤としての土地保有秩序が、個別の土地保有を国家が直接保証することができない中で如何にして成立し得たのか、土地取引の諸範疇をめぐる紛争の事例分析の中から理解を試みる。この際に、民間の書主体の取引諸範疇に関する(それ自体多様な)理解と、国家法秩序の運営の中で形成された同じ諸範疇の理解との間の異同?関係に着目する。
最後に以上の分析を踏まえ、清代中国における土地保有?取引秩序の成立?運用について、父兄親族関係?地縁的諸関係を通じた地域社会編成と国家形成との関係の中で、動態的に理解することを試みる。
フランス革命期における「一般意志の表明としての法律」と「自由」
波多野敏(岡山大学)
1789年人権宣言においては、自由は自然権の一つであるとされるが(2条)、法律によって自由の限界を定めるとし(4条)、また、この法律は「一般意志の表明」であると定められている(6条)。こうした人権宣言の制定に大きな役割を果たしたムニエは、『政府についての考察』のなかで、法律によって初めて自由が保障できると論じており、法律と自由とを必ずしも対立するものと把握していない。
ここでの法律と自由の関係は大略次のようなものである。一般意志の表明としての法律の制定にあたっては「すべての市民は、自らまたは自己の代表者を通じてその作成にむけて協同する権利を有する」と定められ(6条)、法律の基礎にはあらゆる「市民」の意思が想定される。法律は自らの意思によって制定されたものでもあり、これに従うことは自らの意思に従うことになる。他方で自律的な決定を行うことが自由であるとすると、法律に従うことは、自らの決定に従うことでもあり、必ずしも自由とは矛盾しない。
しかし、独立して自律的な決定を行う能力のない、子供、精神病者、犯罪者、貧者などは法律の制定に協同する政治的権利は実際には認められない。こうした「人」の自律へ向けたプロジェクトも革命はまた想定しているが、こうした「人」に対する国家的な介入はさきの法律=自らの決定という論理は成り立たない。さらに女性については、一律に政治参加の権利は認められず自律としての自由を享受できる可能性はない。
本報告では、フランス革命期の「法律」と「自由」を題材に、「国家と自由の空間」というテーマにアプローチしたい。
大正期母性保護論争に見られる個人と国家
松田恵美子(名城大学)
本報告ではシンポジウムのテーマ「国家と自由の空間」との関連で、個人が援助を必要とする時、その援助に国家は如何なる形で関わるべきかを考えてみたい。そのために取り上げるのは大正時代の母性保護論争である。
この論争時、まず与謝野晶子が欧米の婦人運動に見られるような、妊娠分娩等の時期の婦人が、国家に経済上の特殊な保護を要求することに賛成できないと主張し、対して平塚らいてうが欧州での私生児問題の深刻さを挙げ、国家による私生児の保護が必要、さらにそのためにはその母の保護が必要と主張したのである。
与謝野は、経済的に独立する自覚と努力さえあれば、母の職能を尽くし得ないような不幸に陥ることは避けられると考えるため、国家の特殊な保護は、或種の不幸な婦人のために已むを得ず要求されるべきものと考えており、一般の婦人にとって望ましいものではないと考える。しかし平塚は、子供は自分の私有物ではなく社会のものであり、国家のものであると考え、このような仕事をする母を国家は保護すべきものと考える。
この二人の考え方は、国家の個人への関与の仕方の面で大きな違いが見られる。そこでこの二人の考え方の違いを検討することで、国家による個人への関わり方を検討したい。
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