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日本法制史学会第68回総会のご案内
发布部门:法史网     发布时间:2016-06-22

法制史学会第68回総会のご案内



※詳細は、こちらのファイル(案内状)をご参照下さい。

 法制史学会第68回総会を以下の要領で開催いたします。ふるってご参加くださいますよう、ご案内申し上げます。
 総会へのご参加に当たっては、同封の振込用紙に必要事項をご記入のうえ、5月13日(金)までに振込手続をお済ませください。お振込の確認には日数を要しますので、総会準備の都合上、期限を厳守くださいますようお願い申し上げます。
 なお、非会員の方も、当日会場にて参加費をお支払いただければ、自由報告およびシンポジウムを傍聴していただけます(総会議事の審議を除きます)。
ご関心をお持ちの方々のご来場をお待ち申し上げております。


(1)研究報告
 第1日:2016年6月11日(土)午前10時開始
 第2日:2016年6月12日(日)午前10時開始
 会場:東京大学本郷キャンパス 山上会館 2階会議室
 参加費:1,500円

(2)懇親会
 日時:2016年6月11日(土)午後6時15分開始予定
 会場:東京大学本郷キャンパス 山上会館 地下1階レストラン「御殿」
 参加費:6,000円

(3)見学会
 見学会は実施いたしません。

(4)昼食
 会場周辺には、大学構内も含め、飲食可能な店舗が一定数存在しますが、数は決して多くありません。また、日曜日は多くの店が閉店します。そこで、会場となる山上会館の地階にある食堂「御殿」(上記懇親会会場でもあります)にて、ランチ(1食1000円)をご提供いたします。両日とも、こちらのご利用をおすすめいたします。
 事前にご予約いただいた分のみのご用意となりますので、ご利用の方は同封の振込用紙にてお申し込みください。

(5)宿泊
 申し訳ありませんが、準備委員会では宿泊のお世話はいたしておりません。

(6)連絡先(できるだけE-mailでのご連絡をお願いいたします。)
 〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学法学部研究室内
 法制史学会第68回総会準備委員会(新田一郎?両角吉晃?松原健太郎)
 Tel:03-5841-3268(新田研究室。大会当日はつながりません。) 
 Fax:03-5841-3174(法学部研究室受付。大会当日はつながりません。)
 当日緊急連絡先:080-9587 -8815(大会当日のみつながります。)
 E-mail:
jalha68sokai@xqb.biglobe.ne.jp  

会場へのアクセス

地下鉄最寄り駅
 本郷三丁目駅(東京メトロ丸の内線、都営地下鉄大江戸線)
 東大前駅(東京メトロ南北線)
 春日駅(都営地下鉄三田線)
 根津駅または湯島駅(東京メトロ千代田線)

JR?バスをご利用の場合
 都バス?茶51系統[秋葉原駅前-御茶ノ水駅前-駒込駅南口]
   秋葉原駅前または御茶ノ水駅前にて乗車、東大正門前にて下車
 都バス?東43系統[東京駅丸の内北口-御茶ノ水駅前-荒川土手(-江北駅前)]
   東京駅丸の内北口または御茶ノ水駅前にて乗車、東大正門前にて下車
 学バス?学07系統[御茶ノ水駅-東大構内]
   御茶ノ水駅にて乗車、東大構内にて下車
 学バス?学01系統[上野駅-東大構内]
   上野駅または上野松坂屋前(御徒町駅前のバス亭)にて乗車、東大構内にて下車



総会プログラム



第1日 6月11日(土)
9:30       【受付開始】
10:00~11:00   北条泰時の法思想

           長又高夫(身延山大学?仏教学部)


11:00~12:00   徳川幕府刑法における共犯処罰の判例法理と刑事責任観

代田清嗣(名古屋大学?大学院法学研究科?博士後期課程)


12:00~13:00   【昼休み】
13:00~14:00   ハンセン病におけるスティグマの形成と人権―― 旧約聖書「レビ記」13章以下における「ツァーラアト」の「誤訳」を前提として

佐野誠(奈良教育大学?教育学部)


14:00~18:00   ミニシンポジウム?経済史学と法制史学――経済秩序をめぐる対話の試み
〔趣旨説明〕

新田一郎(東京大学?大学院法学政治学研究科)


〔報告①〕借書の譲渡可能性とその条件――中世における債権の性質をめぐって

桜井英治(東京大学?大学院総合文化研究科)


〔コメント〕

松園潤一朗(一橋大学?大学院法学研究科)


〔報告②〕近世日本の商秩序――大坂市場を素材として

高槻泰郎(神戸大学?経済経営研究所)


〔コメント〕

和仁かや(九州大学?大学院法学研究院)


(15:30~16:00   【休憩】)
〔報告③〕貨幣の多元性と市場の多層性――「工業化前」中国、日本、イングランドを中心に

黒田明伸(東京大学?東洋文化研究所)


〔コメント〕

鈴木秀光(専修大学?法学部)


18:15~20:00   【懇親会】

第2日 6月12日(日)
10:00~11:00   魏志倭人伝から見た邪馬台国大和説の検証

上野利三(三重中京大学?現代法経学部)


11:00~12:00   明治民訴法期における職権?当事者関係の一側面――『法律新聞』にみる実態(1900~26年)

水野浩二(北海道大学?大学院法学研究科)


12:00~13:00   【昼休み】
13:00~14:30   総 会
14:30~15:00   【休憩】
15:00~16:00   朝鮮総督府裁判所における司法判断過程――韓国?法院記録保存所所蔵「光復前民事判決原本」を手がかりに

岡崎まゆみ(帯広畜産大学?人間科学研究部門)


16:00~17:00   韓国?朝鮮の慣習調査関連資料、慣習調査事業及び慣習法関連研究について

李英美(明治大学?商学部)

 

報告要旨



【自由報告?第1日】
長又高夫(身延山大学?仏教学部)
北条泰時の法思想
 本発表では、鎌倉幕府の礎を築いた執権北条泰時の法思想について論じたい。
 北条泰時は、武家の基本法たる『御成敗式目』を制定したことで知られている政治家であるが、彼の思想についてはこれまで十分に論じられてこなかった。以前、彼の政治構想については拙文を発表したが、それに続き彼の法思想についても明確にしておきたい。本発表の概略を以下に示しておく。
 1221年の承久の乱によって全国の軍事警察権を掌握した鎌倉幕府は実力で正義を実現することが出来る公権力となった。だがそれは同時に在地社会における秩序回復の責任を幕府が負うことを意味した。これによって幕府は、裁判権者としての道理を明らかにする必要に迫られたのである。この為に制定されたのが、『御成敗式目』であった。勿論、武家社会の法慣行を一方的に押しつけるのでは公家側の理解を得られなかった。現実に機能している在地法を考慮した上で、公家側も首肯しうる明確な裁判規範を示す必要があったのである。その為に泰時は律令法学を学び、「因准」「折中」といった明法家の解釈技法を修得したのであった。幕府の裁判規範たる『御成敗式目』を律令法の特別法(=式)として位置づけようとしたのもその成果であった。なぜ新たに道理を示し、新法典を制定しなければなかったのかと言えば、それは当該期にいたって道理が失われ、律令法が機能しなくなっていたからである。
 泰時は公正な裁判を行う為に、手続法や証拠法を定め、理非の究明を厳格に行い、「折中」の理を導き出していったのである。幕府法廷において当事者が「和与状」を交換し和解する事例が当該期以降確認できるようになるのも、該法廷が事実審をきちんと行うようになった結果であった。
 本発表では、如上の経緯を説明した上で、泰時がどの様に「折中」の理を案出していったのか、具体的に検討する。
(参考文献)
拙著「『御成敗式目』編纂試論」(林信夫?新田一郎編『法が生まれるとき』創文社、2008年)、拙著「北条泰時の政治構想」(『身延山大学東洋文化研究所所報』第15号、2011年)、拙著「北条泰時の道理」(日本歴史学会編『日本歴史』第744号、2012年)

代田清嗣(名古屋大学?大学院法学研究科?博士後期課程)
徳川幕府刑法における共犯処罰の判例法理と刑事責任観
 徳川幕府刑法において、共犯は「頭取」「同類」「差図」「荷担」など、いくつかの語によって表される。それらはおもに共犯を正犯?従犯に分類する語であるが、同類は「共同正犯的処分方式」を示す場合にも用いられたと説明されている。しからば、これらの語は、共犯者のどのような態様によって、それぞれ認められるものであったか。本報告では、先行研究の成果を踏まえつつ、これまで検討されてこなかった判例にも目を配り、徳川幕府後半期(特に安永頃から天保頃まで)における共犯処罰の判例法理を、以下の三点から明らかにする。
 1)頭取?同類は、強訴徒党など多人数による犯罪における共犯類型である。従来、両者は、自ら犯意を生じたか、他者の犯意に影響され自身も犯意を生じたかという、主観的要素によって区別されるものと説明されてきた。しかし、判例に見られる認定基準や、「頭取ニ差続」なる類型をも含めて考えると、必ずしもこの限りではない。本報告では、強訴徒党を中心にこの共犯類型の認定基準を明らかにするとともに、当該犯罪類型における共犯処罰の特性についても言及したい。
 2)共同正犯としての同類は、盗罪において最も発達した共犯類型である。先行研究では、このような処罰が認められる理由もまた、犯意という主観的要素に求められてきた。本報告では、盗罪の特性にも着目しつつ、かかる共犯類型が如何なる根拠によって如何に運用されてきたか再検討する。さらに、従来はあまり注目されてこなかった、盗罪における従犯的取扱いについても検討し、共同正犯としての同類と区別される根拠を明らかにしたい。
 3)人殺における共犯の取扱いについて、公事方御定書には、「初発に打懸候もの」すなわち最初に攻撃した者を下手人とするという、他の犯罪類型には見られない規定が存在する。かかる規定については先行研究においても言及されているが、その詳細が十分に解明されているとは言い難い。また、実務においては、御定書の規定とは異なる処罰も見られる。本報告では、当該犯罪類型における共犯の取扱いについて、特に下手人という刑罰の特性を踏まえつつ検討したい。
 さらに本報告では、以上の検討から窺われる共犯の判例法理をとおして、徳川幕府法における刑事責任観の一端についても考察したい。

佐野誠(奈良教育大学?教育学部)
ハンセン病におけるスティグマの形成と人権――旧約聖書「レビ記」13章以下における「ツァーラアト」の「誤訳」を前提として
 ハンセン病は、歴史的に見て、lepra、leprosy、「癩病」、「らい病」等という名称で呼ばれ、ハンセン病者に対する様々な人権侵害がなされてきたことはよく知られている。日本の場合、1996年の「らい予防法」の廃止に至るまで、ハンセン病者に対する強制隔離政策が形式的にも実質的にもなされてきた。また人権内容をいち早く成文法化した西欧諸国においても、近現代に至るまでハンセン病者に対する差別意識は根強く残っている。このような差別意識の主たる要因の1つとして、聖書の誤訳とそれに基づくハンセン病者に対する「スティグマ」(アーヴィング?ゴッフマン)の形成が挙げられる。ハンセン病者は神学上「罪人」と見なされ、信仰深いキリスト教の聖職者や信徒によってさえ、ハンセン病は宗教的社会的に忌むべき病と長い間考えられてきたのである。本報告では、旧約聖書「レビ記」13章以下に記されたツァーラアト(????, ?āra?a?)の意味内容を探求した上で、この言葉が、英語、日本語の聖書等でleprosy、「らい病」という特定の病名に訳された経緯と、それが果たした解釈史的社会史的帰結の一端を明らかにしてみたい。
 より具体的には以下の3つが論点となる。第1に旧約聖書「レビ記」13章以下の「ツァーラアト」という言葉が、実際には「特定の病を指すのではなく、幾つかの異なる種類からなる皮膚疾患の総称」であるにもかかわらず、leprosyや「らい病」と訳されてきた翻訳史的要因を検討することである。第2にツァーラアトがleprosyや「らい病」と誤って訳された結果、ハンセン病者に対して「罪人」という烙印が押され、差別意識が増幅された思想史的社会史的諸帰結を提示することである。スーザン?ソンダクによれば、「中世において、らい病患者(leper)とは堕落を目に見える者とする社会的テキストであり、退廃の見本、象徴であった」(Illness as Metaphor, 1978)。この見解は中世だけに限定されず、近現代にも妥当しよう。第3にハンセン病(者)におけるスティグマの形成と国家の隔離政策との間にどのような親縁関係が存在したのかを近代以降の日本とノルウェーの事例から比較史的に考察することである。
 なお、現代日本では、癩病、らい病は差別的用語と見なされ、「らい予防法」の廃止を1つの契機として「ハンセン病」に言い換えられるようになった。本報告では、ハンセン病の概念史的考察が1つのテーマとなるので、文脈に応じて、癩病、らい病という言葉を用いることを予め断っておきたい。

【ミニシンポジウム?経済史学と法制史学――経済秩序をめぐる対話の試み】

〔コーディネータ?新田一郎(東京大学?大学院法学政治学研究科)〕
 経済史学と法制史学とは、「歴史上の社会における人々の振舞いを条件づける構造とその歴史的推移」という関心対象を共有しながら、問題の切り取り方、焦点の据え方を異にし、互いに他方に対して外的条件(の一部)を提供する(或る意味で「相補的」な)関係に立ってきた。ところが近年、経済史学の分野では経済活動に対する条件づけのメカニズムとしての「制度」の多様なあり方に対する関心が高まり、法制史学との境界を積極的に踏み越える試みが、両分野に新しい可能性(と課題)を提示しつつある、との観がある。本シンポジウムでは、主として前近代日本に材を取り、経済史側からの問題提起に法制史側が応答する形で、両分野の、緊張を伴う協働関係の構築を図る。

〔報告①〕桜井英治(東京大学?大学院総合文化研究科)
借書の譲渡可能性とその条件――中世における債権の性質をめぐって
 債権?債務関係はいつの時代にも存在するが、それが第三者に譲渡できるかとなると、時代や地域によってかなり違ってくるように思われる。中世後期の日本は明らかに債権(借書?手形)が譲渡可能な社会であったが、それがいかなる条件にささえられていたのかを探ってみたい。そこには強力な制度や司法当局、同業者団体等の有無だけでは説明のつかない何ものかがあるようにみえる(実際、中世社会はそのいずれも欠いているか、あっても脆弱なものであった)が、社会関係という見地よりすれば、それは要するに顔のみえる関係から顔のみえない関係への変換を認めるか否かであろう。このあたりに解決の糸口を求めつつ、あわせてこの厄介な問題への経済史、法制史双方の参画を促したい。

〔コメンテータ?松園潤一朗(一橋大学?大学院法学研究科)〕

〔報告②〕高槻泰郎(神戸大学?経済経営研究所)
近世日本の商秩序――大坂市場を素材として
 本報告では、近世日本において商秩序がいかに保持されていたのか、という点について、当時の中央市場を擁した大坂を対象に考察する。とりわけ、債権の保護に関して江戸幕府が示した裁量的な態度が持つ意味について検討する。  江戸幕府は、大坂における債権債務関係訴訟に対しては債権者保護の姿勢で臨んだと言われるのに対して、江戸?京においては債務者保護の姿勢が強かったと言われる。また、商人が有する対大名債権に対する保護は弱かった一方で、大名が発効した米切手という短期財務証券については強い保護を与えていた。債権保護に対する江戸幕府のかかる裁量的な態度が持った意味について、事例の検討を踏まえながら、シンポジウム参加者と議論を深めたい。

〔コメンテータ?和仁かや(九州大学?大学院法学研究院)〕

〔報告③〕黒田明伸(東京大学?東洋文化研究所)
貨幣の多元性と市場の多層性――「工業化前」中国、日本、イングランドを中心に
 貨幣の定義は多々あるが、貨幣が交換の手段であることを否定する定義はなかろう。だがその交換という行いに多様性があることに踏み込んだ貨幣論はまれである。交換が、匿名的か指名的か、また局地的に行われるか隔地で行われるか。この二つの志向軸の組み合わせは、交換に「隔地?匿名(I)」、「隔地?指名(II)」、「局地?指名(III)」、「局地?匿名(IV)」の4象限の位相をもたらす。各社会は時代によって、例えば貴金属通貨(I)、為替(II)、帳簿決済(III)、卑金属通貨(IV)といった手段の組み合わせをそれぞれ変えてきた。「局地?匿名」依存の強い中国、「局地?指名」が根強いイングランド、匿名志向より指名志向に傾斜した日本、を素材に、制度的枠組と市場との間の相互に規定しあう関係とその変化を論ずる。

〔コメンテータ?鈴木秀光(専修大学?法学部)〕

【自由報告?第2日】
上野利三(三重中京大学?現代法経学部)
魏志倭人伝から見た邪馬台国大和説の検証
 長い間邪馬台国大和説と北九州説の両説は並立し今日に至った。しかし大和説論者にあっては近年、既に決着しているとの論が、考古学及び文献史学の両方から強く主張されるようになった。
 しかしその内容に目を通すと、魏志倭人伝の誤解の仕方に納得し難い点が多々見られる。そうした疑点が存在する限り、容易には大和説に従うことができない。たとえば、古代繊維の痕跡を研究してこられた布目順郎氏は、倭人伝に記された邪馬台国の絹の痕跡が、発掘の現状から福岡、佐賀、長崎以外から報告が全く無いのは、邪馬台国が北九州に存在した証となる、と明言された。この考古学上の知見に対して大和説からは何ら反論が示されたことはない。また古代言語学者の最近の成果によると、邪馬台国言語は北九州方言であるという。そしてまた数理学者によると魏の時代の里数は単里であったことが明らかにされている。そうだとすれば邪馬台国の所在地は北九州域内にとどまる。さらに、魏の時代の墳墓は薄葬を旨としている点が、最近の曹操の墳墓の発見から明らかとなった。魏の外臣国の王である卑弥呼の墳墓は、大和説の多くは箸墓古墳とれさるが、それは宗主国の曹操の墓より数倍の大きさになるが、そう考えてよいものだろうか。三国志は西戎と南蛮には触れず、北狄伝と東夷伝があるのは、これら諸国には謀反や侵略の歴史がありそれらの脅威に備えるため国境や国の様子などが事細かに記されたのである。それ故に方向や距離を綿密に調べて記録されたことは言うまでもない。大和説の論者がそうした三国志の撰述意図?目的を軽く考えて、倭人伝に「南」とあるのを「東」であるとしたのは安易な書き換えであったと断ぜざるを得ない。
 ところで、倭人伝には卑弥呼を「冢」に埋葬したとある(三世紀半ば頃)。知友獄の墳墓には「冢」と「墳」の二種があることが知られている。卑弥呼の墓を箸墓古墳とする大和説によれば、まさしくそれは「墳」となるが、倭人伝に「冢」と記されているのとは齟齬をきたす。三国志の中の蜀志諸葛亮伝に「冢」と「墳」を区別する記述があり、両者の規模について純然たる相違があったことが示されている。諸葛亮の墓は「冢」であり、曹操と同様薄葬であった。倭人伝に卑弥呼の「冢」は「径百余歩」とある。その地形は円形であったことが分かる。従来の説では、魏は長里を使用し一歩は六尺とされ、一尺が約二四cmになるとされてきた。すると百余歩は一四四m程になる。大和説も北九州説もこれを信じて疑わなかった。だが短里が用いられていたならば、一里は七六?七m。一尺は四?二六cm。従って百歩は二五?五六mということになる。二六m級の円形周溝墓は大牟田市に存在するのが唯一知られているが、調査はいまだなされていない。卑弥呼の墓を箸墓古墳、あるいは周辺の古墳に当てる大和説は古墳時代を三世紀半ばごろに遡らせるがそれはいかがなものであろうか。
 倭人伝に描かれた「国」の解釈もまた、弥生時代の実情に添って正確に読み解かなければならない。飛鳥?奈良時代の国ならば律令行政区画としての国ということになるが、それよりもはるか以前、それも古墳時代より前の「国」という場合には国家が設定した行政区画としての国というものは存在し得ないのである。弥生時代後期には古墳時代以降の「郡」程度に成長したものに近い領域の「国」が出来つつあった。たとえば奴国はのちの那賀郡、伊都国はのちの怡土郡、末廬国はのちの松浦郡というように、である。倭人伝には邪馬台国女王卑弥呼を共立した国々(邪馬台国連合)の勢力が周辺諸国を征服してゆく過程、あるいはまだ征服に至らず戦いのさなかである様子が描かれているが、一応「女王国より以北」の国々を治めた様が知られる。のちの四世紀半ば頃に応神天皇が産まれた宇美(糟屋郡)や遠賀川流域に存在した岡国など十数カ国のことは触れていない。従って未征服だったことが推測される。邪馬台国支配下の二九カ国、つまり二九の郡程度の国々は北九州に収まることが知られる。馬がまだ存在しない当時はこれら諸国は隣接しあって情報を共有し、行政と郡司を司っていたに違いない。戦国時代と言われた当時、それら諸国が列島に散在していたのでは、周囲の適性国家に押し潰されるからである。
 邪馬台国以前の奴国や伊都国が北部九州に覇を唱えた時代、これらの国々はいかにして北部九州の諸国を支配下に治め、序列化に成功していたか。北部九州の王墓を詳しく調べられた下条信行氏によれば(「弥生時代の九州」『岩波講座日本考古学5』1986)、剣、戈、矛などの青銅武器は王の私有財としてその威信を高めるために使われた。そのうち一番価値の高い矛は入手者あるいは生産者である北部九州の王が手元に止め、二番目に価値をもつ戈は北部九州文化圏内の王に配布し、序列下位の剣の分布地域は南部は菊池川流域、東は遠賀川流域まで、に見られる、という一定の法則があったという。そうしたルールを差配したのは青銅器を先取的に入手した玄界灘沿岸の有力勢力であった。ところが弥生時代後期になり威信財を下賜されていた脊振山以南の邪馬台国を初めとする勢力はこれに飽き足らず玄界灘沿岸の有力勢力を襲い、支配下に置くに至った。それが倭国の反乱と倭人伝に記すものであろうと推測する。因に倭人伝に「次ぎに奴国あり。これ女王国の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず」とある奴国は菊池川流域の玉名郡のことであろう。奴は名に通じるし、上記した玉名郡の王墓と思われる所から出土する剣と軌を一にする故である。ここと隣接する敵国の官「菊池彦」も参考になる。

水野浩二(北海道大学?大学院法学研究科)
明治民訴法期における職権?当事者関係の一側面――『法律新聞』にみる実態(1900~26年)
 民事訴訟手続を考察する上で、裁判官と当事者?弁護士のそれぞれにどのような役割を担わせるかは、手続の各所において問題となる。近代以降の民事訴訟理論においてはいわゆる当事者主義と職権主義が二つの根本的な対抗軸とされ、当事者主義が基本とされつつも個々の論点では種々の理由から職権主義の要素が一定程度採用されてきた。職権の積極的関与が期待されうる局面の一つとして、争点整理のために訴訟関係を明瞭にすることと、その争点についてでき得る限り真実に近い判断を下すことがあげられる。これらの点について職権介入が口頭審理により活発に行われるようにすることが大正民事訴訟法改正(1926年)の一つの眼目だったという仮説にもとづき、報告者は大正改正の起草?立法過程をかつて検討した(法制史研究63号)。本報告では、これら起草?立法過程の関係者が暗黙の前提にしていたと思われる、明治民事訴訟法(1890年)のもとでの民事訴訟実務の実態とそれに対する当時の問題意識に光を当てることを試みる。
 1890年過ぎまでに一応継受された西洋(とりわけドイツ)近代民事訴訟のその後のいわば定着期について、手続そのものについての先行研究はごくわずかである。とりわけ、継受法定着の最前線たる民事訴訟実務における実務法曹(や当事者本人)のパフォーマンスや問題意識は、立法?判例?学説の変化を引き起こす大きな動因であったと思われるが、実務法曹の回顧録に残された「体験談」を超えたかたちでの検討はほとんど存在しない。本報告では当時の実務の実態?それに対する問題意識の少なくとも一面をつよく反映した史料として、実務法曹を主たる読者として想定したメディアである『法律新聞』の記事を検討する。論点としては、①急速かつ包括的に、およそ異なる法伝統を持つ外国法を継受せざるを得なかったことの影響、②職権の積極的介入が期待された背景としての、弁護士(当事者本人はもとより)の資質への評価の低さ、③実務法曹たちが抱いていた問題意識は手続レベルの具体的なものかそれとも理念性の強いものか、④裁判官と弁護士の間で見解が一致することも多かったこと、⑤当時の民訴手続の重要なイシューであった「手続迅速化の要請」との関連の確認、などが挙げられる。

岡崎まゆみ(帯広畜産大学?人間科学研究部門)
朝鮮総督府裁判所における司法判断過程――韓国?法院記録保存所所蔵「光復前民事判決原本」を手がかりに
 統治期朝鮮の民事法として内地法が直接施行されたことはほとんどなかったが、朝鮮総督が制令等を通して内地法を「依用」した例は多く、朝鮮の民事法を内地法と切り離して考えることはできない。また、法源として朝鮮在来の「慣習」を尊重すべきとされた事項(たとえば親族?相続に関する事項;朝鮮民事令第11条)についても、明治民法「依用」範囲の段階的な拡大によって内地法の影響が強まっていったことは、既に先行研究が明らかにしている。さらに、内地法の朝鮮に対する影響は「依用」規定だけでなく、司法判断を通じてなされた点にも注目する必要がある。これも既に一連の先行研究が指摘しているように、特に王朝時代以来の「慣習」が、統治期に高等法院が下した「判決」を通じて一定の変化を迫られたことは確かである。では、そうした「判決」はいかにしてつくられたのだろうか?
 朝鮮総督府裁判所(高等法院—覆審法院—地方法院)は、朝鮮総督府の所属官署として内地の司法組織とは別であったことから、司法判断(判決)の場面では内地司法の先例に拘束されなかった。法源として内地法を「依用」しても、朝鮮社会の実情や外地統治という政治的条件、その他事情を鑑みて、内地と異なる司法判断を下すことも可能だったのである。そうしたなかで、①総督府判事が事件の審議にあたって実際に何を参照し、②何らかの疑義が生じた場合には誰に?どのように照会し、さらに③総督府判事をとりまく学問的?政治的環境がいかなる状況であったか、といった、朝鮮総督府裁判所の司法判断過程をめぐる実相は明らかになっていない点も多く、統治期朝鮮の民事「判決」に対する内地法の影響の実証的な解明は、なお検討を要するものといえよう。
 本報告では、上記①?③の課題を踏まえて、朝鮮総督府裁判所で争われた民事事件を取り上げ、その裁判過程から、統治期朝鮮における司法判断過程のモデルを例示する。そしてそれらモデルを通じて、「帝国日本」という枠組みのなかでの司法判断をめぐる内地と外地?朝鮮の関係性について若干の考察を加えたい。なお、本報告では裁判資料として「光復前民事判決原本」資料群(韓国?大法院法院記録保存所所蔵)を用いる。この資料群は、従来多用されてきた『朝鮮高等法院民事判決録』登載の判決原本に加え、『判決録』未登載の高等法院判決や各覆審?地方法院といった下級審判決の原本を含み、総冊数は約9,500冊にのぼる。統治期朝鮮の民事裁判についてより立体的な理解を可能にする、大規模かつ貴重な資料群である。

李英美(明治大学?商学部)
韓国?朝鮮の慣習調査関連資料、慣習調査事業及び慣習法関連研究について
 慣習調査に関する資料は、多角度からの接近と多方面の研究領域に豊富な情報を提供する資料であると考える。例えば、慣習及び慣習法の国際比較、慣習の成文法化過程や伝統法と固有法の関係、法の継受関係や相互影響関係などの法制史的研究から、民俗学、近代日韓関係史、植民地法史、韓国?朝鮮近代法史などに至るまで、様々な観点から可能なのである。
 日本による韓国?朝鮮の慣習調査は、保護国時代の1907年(統監府時代)から日韓併合後の1937年(朝鮮総督府時代)まで行われた。前者は、梅謙次郎の指揮下に行われた、不動産慣習に関する基礎調査と、基本法典編纂のための民商事関連206項目(日本法の編別順に沿った調査項目)の慣習調査に、大きく分けられる。後者は、日韓併合後の韓国?朝鮮では独自の法典を編纂せず、日本法をもって適用することになったが、日本と大きく異なる不動産、親族、相続の事項に関しては、韓国?朝鮮の慣習が適用されることになったため(「朝鮮民事令」第11条,12条。制令第7号、1912年3月公布?同4月施行)、引き続き慣習調査が行われたためのものであった。そして、後者では「朝鮮民事令」第11条の第二次改正(制令第13号、1922年12月公布?1923年7月施行)と「朝鮮戸籍令」(朝鮮総督府令第154号、同上)の制定を節目に、1921年及び1923年にかけて、それまでの慣習調査の方法を民事、商事、制度、風俗という四部門調査として行うことにし(「新慣習調査」)、1937年まで続けられた。
 慣習調査の目的は、統監府時代には日本とは異なる韓国?朝鮮固有の民商法典編纂の材料とするため、そして朝鮮総督府時代においても引き続き韓国?朝鮮の慣習を成文法化する方向で慣習調査が進められたが、日本政府と朝鮮総督府との間の葛藤によって果たせず、「朝鮮民事令」の度重なる改正を通じて日本法の適用範囲を広めていった。そうした中でも、依然としても親族、相続の分野における慣習の適用範囲は残されていた。そのため、慣習存在及び内容に関する司法及び行政の現場から朝鮮総督府への確認作業は続けられた。
 以上のような両時代に行われた慣習調査及び慣習の照会?回答の結果は、こんにち、206項目を調査した慣習調査報告書、単一の事項に関する慣習調査報告書、各種回答?通牒?決議などの形で膨大な量をなし、整理されないままに韓国、日本、米国に散在する。まずは、資料の行方及び所蔵先を確定すること、そのあとに資料の正確な基本情報を作成するために資料の綿密な分析が必要とされる。
 本報告では、以上のことを踏まえ、これまでに発掘してきた慣習調査関連資料について、実際の資料を用いて説明を行うことにする。

(文章来源:日本法制史学会网站)